あの世の話し

あの世にかかわる物語り

ビロードモウズイカのある家

このところ毎日残業続きだ。
賢二のプロジェクトは遅れたスケジュールのリカバリに喘いでいた。

キーボードをたたく手を止め、疲れた目に手をあてる。
時計に目をやると既に22時をまわっていた。

「くそっ、もうこんな時間か。」

思うように進まない作業に苛立ちを感じる。

こんな時間でも作業場には煌々と明かりが灯り、まだ沢山のメンバーが仕事をしている。
いくつかの会議室にも明かりが灯り、打ち合わせが続いているのがわかる。

賢二の参加するシステム開発プロジェクトは、設計作業の締め切りが来月に迫っていたがいまだ問題が山積している状態だった。
賢二もその中のやっかいな問題を担当していて、
連日調査を進めているが未だ解決策にたどり着けていない状態だった。

やることはいくらでもあった。

「まだまだ時間が必要だ。」
だが疲れもだいぶ溜まってきていた。

「そろそろ引き上げたほうが良さそうだ。」
そう呟くと賢二は仕事に踏ん切りをつけた。

「今日はこのへんで引き上げるよ。」
デスクの片づけに入りながら隣で仕事をする同じチームの中川に声をかけた。

「おっ。」
中川は短く頷くと右手を少しだけあげて答えた。

お互いの状況は良くわかっていた。
長期戦の覚悟だ。


都心のオフィスから賢二の自宅まで通勤に2時間ほどかかる。
家族の生活環境を優先して考えた結果、生まれ育った実家近くにマイホームの購入を決めたのだった。

ここは勝手知ったる街だ。
子供の頃はどの家の庭にも一度は忍び込み、塀を乗り越えたりして遊んだものだ。
住人の顔もよく知っている。

帰宅して風呂に入り寝るころには日付が変わっている。
そして翌日朝7時には家を出る。
4時間程度の睡眠時間。
そんな毎日がこのところ続いていた。

この日も賢二を乗せた列車は日付が変わってから最寄り駅に着いた。

そこから先、
自宅までは更に徒歩で15分ほどかかる。
疲れた体を引きずるようにして歩く。


我が家まであと数十メートルというところまで来た時だった。
何気なく上を見上げるとある家の屋根の上に人影のようなものが見えた。

二階建ての一軒家で屋根は傾斜がきつくなっているが、
その屋根の上に直立した姿勢で、まるで屋根が地面であるかのように傾いた状態で何かが立っている。
人間なら転がり落ちてしまう角度だ。

「何だあれは。」

不思議なその影に恐怖を感じながらも賢二の足は止まらない。

だんだんと距離が近づくにつれ、月明かりに照らされたその姿がはっきりと見えてきた。

どう見てもそれは人間に見える。

表情は暗くてわからないが、カバンのようなものを手にした会社員風の男だ。
そいつは屋根の上に立ったまま動かない。

驚いた賢二はその場に立ち止まり、不気味なその影をじっと見つめた。

とその時、そいつの頭が動き、ゆっくりと賢二の方に顔を向けた。

「こっちを見ている。」
そいつと目が合った気がして、賢二の背筋は凍りついた。

次の瞬間、そいつは天を仰ぐように頭をのけ反らせたかと思うと、
直立した姿勢からゆっくりと前に倒れこみ、屋根から落ちていった。

「あっ、危ない。」
賢二は思わず声をあげた。

その影はゆくりと屋根から落ちていくと、地面に落ちる直前にスッと消えて無くなってしまった。

「何だ今のは。」
賢二は目の前で起きたことが信じられなかった。

疲れているせいか幻でも見たのだろうか。
再び屋根の上を見上げたが、そこにはもう何もなかった。

 

その家のことは良く知っている。
賢二が小学生のころ、子供たちの間でお化け屋敷と呼ばれていた家だった。

その家の庭には不気味な植物が植えてあった。

見たこともないほど大柄な葉が地面に張り付くように何枚も広がり、
その中心からは大人の背丈ほどもある太い茎が一本伸びている。
明らかに外来種であろうその植物は、見慣れぬ者の目には異様に映る。

春になるとその茎が毛で覆われはじめ、先端に黄色の花が咲く。
毛で覆われた茎は動物の尾のようで、今にも動き出しそうだ。

そして冬になるとその茎は黒く変色した状態で立ち枯れていく。
人の背丈ほどもある黒く枯れた茎が何本も立ち並ぶ姿は子供達に恐怖を与えた。

この家の女主人が着物姿でこの植物に水をまいているところを何度か見かけることがあった。

その不気味な姿からこの家がお化け屋敷と呼ばれるようになったのだった。

大人になったある日、あの植物のことを思い出し図書館に出かけて調べてみた。
そしてその植物がビロードモウズイカという名であることを知ったのだった。
その植物図鑑には、鉄道線路脇などに群生すると書いてあった。

その後通勤列車の中から線路脇を探してみると、確かにあの植物を見つけることができた。

線路脇に群生する植物。

そいつは飛び込み自殺をした人の轢死体から流れる血を吸って育つ。
そんな不気味なストーリーを賢二は想像した。


帰宅後ベッドに入ったが、さっき見た影のことが頭から離れずになかなか寝付けなかった。

翌朝目を覚ますといつも起きる時間を既に過ぎてしまっている。

「やばい、寝坊した。」
賢二は慌てて飛び起きると支度をして職場に向かった。

30分ほど遅刻して出社すると隣の中川が声をかけてきた。
「おい尾形、お前が遅刻なんて珍しいな。」

とはいえ周りのだれもが疲れ切っている今、多少の遅刻は誰も気にしなかった。

「わるいな、昨日なかなか寝付けなくて。」
賢二は疲れが溜まった表情でそう詫びた。
そして、仕事が始まって多忙な現実に引き戻されると昨夜の出来事はすっかり忘れてしまっていた。

夕方の定例会議が始まった。
メンバーが各々作業の進捗を報告していくが状況は芳しくない。

「おい尾形、この設計今週中に仕上げるのは難しそうだな。」
中川が難しそうな顔をしてそう話しかけてきた。

「そうだな。」
「今週末出勤して取り戻すしかなさそうだ。」

そう言いながら賢二は、
中学に進学する正一の買い物のため、週末に家族で出かける約束になっていることを思い出した。

会議が終わると直ぐに、賢二は妻の優子にメッセージを入れた。
「今週末は仕事になりそうだ。
 買い物は来週に変更してもらえないかな。
 正一にもゴメンと伝えておいて欲しい。」

ほどなく優子から返事が返ってきた。
「承知しました。
 大変ね。体は大丈夫?
 正一のことは心配いらないです。」

「やれやれ、土日も仕事か。」
そう思うと気が滅入った。


「休日出勤でリカバリするとはいえ、少しは体を休める必要もあるよな。」
賢二は中川にそう言うと、休日は午後からの出勤にしないかと提案した。

「そうだな。どうせ遅くまで仕事になるに決まってるんだ。」
笑いながら中川も同意した。


「明日は朝10時に起こしてくれ。」
帰宅した賢二はそう優子に頼み、その日は久しぶりにゆっくりと休んだ。

翌朝正一に買い物に行けなくなったことを詫び、支度を済ませると家を出た。

少し歩くと例の家が見えてきた。

この前の出来事を思い出し、気になって家を覗き込んだその時、
家の壁に何か白いものが動いているのが見えた。

それは壁からスッと浮き出たかと思うと、また壁の中に引っ込んでいった。

「何だ。」
賢二は立ち止まり、白いものが見えた壁を見つめた。

するとまた壁の中で白いものがモヤモヤと動いたかと思うと、スッと浮き出てきた。
それは子供の背中のように見える。

「子供か。」
賢二は驚いて声をあげた。

白い体操服のようなものを着た子供の背中が、壁から出たり入ったりしている。

賢二は驚きのあまりその場に立ち尽くした。

目の前の壁の中でせわしなく動く子供の体。

次の瞬間、賢二の前に子供の全身が現れた。

それは紛れもなく体操着姿の小学生だった。

運動会の時のように頭にピンク色のハチマキを締めている。
友達とふざけあっているのだろうか、壁から飛び出してきた子供をからかうように別の子供の二本の腕が壁から突き出ている。

家の壁から浮き出てきた二人の子供。

賢二の目の前でふざけあっているこの子達はどう見ても生きた人間にみえるが、
お互いしゃべっているはずのその声は聞こえてこない。

静まり返った通りに、まるで古い無声映画でも見るかのように二人の子供が動きまわっていた。

やがて、賢二の存在に気づいたかのように振り向いたその子は友達の腕とともに壁の中に消えていった。

壁の中に消える瞬間、
その子が賢二に向かって笑ったように見えた。

異様な光景を前に呆然と立ち尽くす賢二。


賢二は我に返るとその家の敷地に入り込み、たった今子供が消えていったその壁に触れてみた。
古びた家の外壁は少しザラついた感じで、塗装のひんやりとした感触が手のひらに伝わってくる。

「幻覚を見たのだろうか。」
子供たちが消えてしまい、何事もなかったかのようにたたずむその家の前で、
賢二はそう思った。

しかし、賢二にはたった今見た子供の姿に心当たりがあった。


休日出勤して遅れを取り戻す計画だったが、今朝の出来事が頭から離れない。

重要な設計作業で何度もミスを繰り返しその度に中川に注意され、
結局、この日の作業は計画通りには行かなかった。

それでも賢二は体調不良と偽り、早めに仕事を切り上げた。

「あの子供。。」

足早に家に帰ると、直ぐに古いアルバムを探し始めた。
押入れの中をあれこれ引っ掻き回し、やっと奥のほうに目的のアルバムを見つけた。

埃まみれのアルバムを引きずり出し、埃を払いながら1ページずつめくっていく。
アルバムは賢二が生まれた赤ん坊時代から年代順に綺麗に整理されていた。

ページが小学校高学年時代に差し掛かったとき、
賢二は目的の写真を見つけた。

「あった。」
そこにはピンク色のハチマキをした体操着姿の賢二が数人の友達とともに写っていた。

その写真は地域の神社で毎年開催する春祭りの時のものだった。
子供たちは小さな神輿を担ぎながら町中を練り歩き、家々を一軒ずつ挨拶してまわるのが習慣だ。

数枚ある春祭りの写真の中にあの家の前で撮影したものを見つけた。

そこには小学生の賢二が数人の同級生とふざけている姿が写っていた。
それは紛れもなく、今朝見た光景そのものだった。

「壁から浮き出てきたあの子供。」
「あれは俺なのか。」

その写真をアルバムから抜き取り、手に取ってよく見る。

ピントの合った子供達の後ろに、ややピンボケで数人の大人が写っている。
祭りを手伝う保護者や子供神輿のギャラリー達だ。

「あっ。」
驚いた賢二は思わず写真を放り出した。

賢二はその中に会社員風の男を見つけた。
写真の中の男は今朝出勤するときの賢二と同じ服装をしていた。


その日以降賢二は例の家の前を避けて通るようになった。
遠回りになったが一本裏の道を使って通勤するようにした。

「自分自身の姿を見ること。それは死の前兆。」

何かの本で読んだことがある。
今まで迷信とバカにしていたが、この数日に起きた出来事がすべて幻視とは思えなかった。


仕事もひと段落したある休日、
近くのコンビニに買い物にと思い家を出たとき、うっかり例の家の前の通りに出てしまった。

「まあいいか。」
そう呟きながら歩いていくと、
例の家の玄関口に喪服姿の男が立っているのが見えた。

納骨に出るところだろうか、骨壺を入れる白い箱を胸の前に抱えてうなだれた姿で立っている。

「家族に不幸があったのか。」

失礼のないように軽く会釈をし目を合わさないようにして男の前を通りすぎようとしたが、
立ち尽くした状態でまったく動かないその男が気になった。

つい顔を上げてその男のことを見てしまったその時、

「あっ。」
賢二は思わず大声をあげ後ずさった。

喪服姿で目の前に立つその男、それは賢二自身だった。

骨壺の入った箱を抱えて立つ賢二は、青白くやつれた顔に泣きはらした真っ赤な目をしている。


驚きのあまり言葉を失ってその場に立ち尽くす賢二。

すると、喪服姿の賢二は膝から崩れ落ち、その場に倒れこんだ。

「おいっ。何があったんだ。」
驚きのあまり賢二が叫ぶと、倒れこんだ喪服姿の賢二はその場から消えて無くなった。

「また現れた。」
「しかも葬式の姿とは。」

賢二はそう呟いた後、
喪服姿が何かの暗示ではないかと考えた。

急に実家の両親のことが頭に浮かんだ。

「まさか。」

大きな不安に襲われながら、ポケットからスマートフォンを取り出し、
震える手で実家の連絡先を選んだ。

電話には母親が出た。

「あら賢二、どうしたの。」

賢二が二人の様子について問いかけると、
変わりなく元気でやっていて定期的に行っている通院検査でも大きな異常はないと母は話した。

母親には葬式の夢を見たからと嘘の話を伝え、
くれぐれも注意するようにと言い残して電話を切った。


自宅に戻ると優子と正一がリビングでテレビを見ている。
いつもの休日と変わらない風景だ。

「あの葬式姿は何かの暗示なのか。」

確かめるべく再び例の家に行ってみたが、
変わった様子は何もなかった。

庭先には例の植物があり、
毛で覆われた茎が風で不気味に揺れ動いていた。

 

賢二のプロジェクトはシステム設計作業の山場をなんとか乗り越えた。
次の目標は半年後に控えるシステムの本番稼働だ。
これからは最終ゴールを目標に作業にとりかかることになる。

この日は、昨日までの苦労とこれからの頑張りを祈願してプロジェクト全メンバーを集めた慰労会が催された。
賢二と中川も久しぶりの宴会に盛り上がった。

「このプロジェクトは厳しかったな。」
「ぶっ倒れるかと思ったよ。」
酒が入って赤い顔をした中川が、そう言いながらビールを注いできた。

「おいおい、まだ終わってないぞ。」
「これからまた地獄が始まるんだ。」
二人は笑いながら酒を酌み交わした。

最終列車の時刻が迫ってきて宴会もお開きとなった。

酒場近くの駅で中川に別れを告げると、改札を通り帰宅路線のホームに上がった。
昨日までは残業の後に疲れ切って立っていたホームだが、今日は酒が入って上機嫌だった。

「1番線回送列車が通過します。白線の内側までお下がりください。」

何度も聞いたことのある回送列車通過のアナウンスが聞こえてきた。

時計を見ると、いつも通り回送列車が通過する時間だ。
車内灯を消した15両編成の回送列車がスピードを落として目の前を通過していく。

この列車が通過した数分後に賢二の目的の列車がやってくるのだった。
その列車は最寄り駅が終点になっているため、万が一寝過ごしても駅員が起こしてくれる
理想的な列車だ。
残業で遅くなる日はこの列車時刻に合わせて仕事を切り上げたものだった。


ホームに立つ賢二の前をいつものように回送列車が通り過ぎていく。
車内灯が消されている真っ暗な車両が一両また一両と通過していく。

15両編成は通貨するのに意外と時間がかかる。
列車の車両を1両、2両と数えるのが賢二の習慣になっていた。


10両を過ぎて残る車両もあとわずかとなった時だった、
通過する列車のスピードが更に遅くなった。

速度が落ちると暗い中でも車両の座席まで良く見え、賢二は通り過ぎる車両の中を興味深く覗き込んでいた。

13両目が賢二に近づいて来ると、遠目にもその車両に社内灯がともっているのが分かった。

鉄道員が中でメンテナンスでもしているのだろうか。」

目の前をゆっくりと通過する13両目の車両を見ながらそんなことを思っていると、
車両の中に2人の人が乗っているのに気付いた。

それは大人の女と子供だった。
母親とその子という感じだ。

他にだれもいない車両だが、座席に座ることなく扉に向かってに二人寄り添って立っている。

目の前をゆっくり通過する車両。
賢二には車両に中に立つ二人の顔がハッキリと見えた。

「あっ、優子。」
賢二は驚きのあまり通過する列車に手をかけそうになった。

車内にいた二人。
それは優子と正一に見えた。

悲しみに沈んだ表情の二人は、一点を見つめたまま視線を逸らすことなく、
そして、ホームに立つ賢二に気づくこともないままゆっくりと賢二の前を通過していった。

列車が通過した後賢二は我に返った。

「そんなはずはないな。」

優子と正一は春休みを利用して今日から鳥取の実家に帰省する計画だ。
二人が帰省する計画について昨夜話をしたばかりで今朝羽田を発っているはずだった。

車両の中の二人が優子と正一に似ていたので慌てたが、
今頃は鳥取の実家でくつろいでいるに違いなかった。

「回送列車に人が乗っているなんて、珍しいこともあるもんだ。」

そんなことを呟きながら、賢二は続けて到着した在来線に乗り込んだ。

遅い時間なので車両には空席が目立つ。
手近な空席を見つけて腰をおろすと、疲れた体をシートにもたせ掛けた。

宴会のあいだ鞄にしまっていたスマートフォンを取り出してみると、
着信があったことを知らせるランプが点滅していた。

暗証番号をタップしてロックを解除すると、
そこにはおびただしい数の不在着信とメッセージが入っていた。

「なんだこれは。」

なにか重大なトラブルが起こっている。
直観でそう感じた。

録音された多くの留守番電話の中から最新のものを選び、震える手で再生ボタンを押すとそこには信じがたい言葉が吹き込まれていた。

優子の父親からのメッセージには優子と正一が大きな鉄道事故に巻き込まれ重体であるという内容が録音されていた。
そしてそれに続くメッセージには、二人が死んだことが告げられていた。

多くの着信記録は地元の警察署と鳥取の警察署からのものだった。
賢二は次の駅で慌てて列車を飛び降り、着信のあった警察署に連絡を入れた。

警察署からの話しは父親の録音メッセージを裏付けるもので、事実を受け止めることが出来ない賢二に対してダメ押しする内容だった。


優子と正一が乗った列車の運転手は、運航に遅れが出ている事を指摘され制限速度を超えて列車を走らせていた。
そして、ある停車駅の手前にある急カーブで、制限速度を超えた列車は脱線して正面にあるビルに突っ込んでいった。

先頭車両とその付近に乗車していた乗客の多くが重体となり。
数十名に及ぶ死者を出す大事故となった。

優子と正一は先頭車両に乗っていて二人とも即死の状態だったらしい。

列車が大好きな正一が先頭車両に乗っていたのは容易に理解できた。

優子の手を引いてプラットホームを先頭車両に向かって歩く正一の姿が思い浮かんだ。


そして数日後、賢二は二人の遺骨を胸に抱え葬儀場に立っていた。

 

しばらくは仕事が手につきそうにない。
賢二が職場に数ヵ月の休職を申し入れると、話しはすんなり受け入れられた。

いや、おそらく復職することはないだろう。
家族をすべて失った賢二にとって仕事などもうどうでもいいのだ。
賢二はそう考えていた。

休職に入る前日、職場に挨拶に行った。
仲間たちはみな神妙な面持ちで賢二を迎え、いつの日か社に戻ってくるようにと賢二を励ました。

別れ際に中川からも、
「仕事のことは心配するな。また戻ってきてくれよ。」
と、声をかけられた。

「ありがとう。」
賢二は中川に礼を言うと、社を後にした。

 

駅のホームで列車を待つ間、
ふと不気味な家の屋根にいた人影のことを思い出した。

「あいつも俺自身ってことか。」
「俺が飛び降り自殺でもするっていう暗示なのか、ふざけやがって。」
賢二は呟いた。


足元を見ると靴紐がほどけかかっている。

賢二はその場にしゃがみこみ、ほどけた靴紐をきつく締めなおした。

念のためと思い反対側の靴紐も締めなおした後ふと線路脇に目をやると、
目の前にビロードモウズイカが見えた。

「こんなところにもいたんだな。不気味なやつだ。」
「今まで夜遅い時間ばかりで気づかなかったな。」


そのビロードモウズイカはこれまで見た中でもっとも大きな葉を広げ、
その茎はやはりこれまで見た中で最も太く大きく成長していた。

そのビロードモウズイカは不気味な茎をくねらせ、
賢二を誘い込んでいるようにも見えた。


「まったく薄気味悪いやつだ。」
そう言いながら賢二は立ち上がった。

 

その時、頭から血の気が引いていく感じに襲われた。

「貧血か。」
「何かに掴まらないと。。。」

そう感じた時には手遅れだった。


激しい衝撃を体に感じて目を開くと、
目の前には線路と大きな列車の車輪が見えた。
線路の敷石の鋭利な先端が賢二の頬に突き刺さっている。

少し遅れて、体中に激しい痛みも襲ってきた。


どうやら線路に転落し、列車にはねられたらしい。

少し離れたところに轢断された賢二の足が見えた。

 

激しい痛みとともに賢二の視界はぼやけていき、やがて暗闇に閉ざされた。

そして賢二の命の炎は消えていった。


轢断された賢二の体から流れ出る大量の血は、
ビロードモウズイカの生えるその根本に向かって流れて行き、
その地面にしみ込んでいった。


おわり

 

 

オリオン

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コトコト コトコト
コトコト コトコト 

夕食の支度をするキッチンで、火にかけた鍋が小さな音をたてている。

「今日はさっちゃんの好きな肉じゃがよ。」
幸子のよろこぶ顔を思い浮かべながら、優子はひとり言をつぶやいた。
キッチンは鍋から立ち上る美味しそうな匂いにつつまれている。

「そろそろ幸子がお腹をすかせて帰ってくる時間ね。」
そう言いながら料理の手を止めて時計に目をやると、6時をまわっている。

「遅いわ。」
呟く優子の心に大きな不安が襲ってきた。

「何も無ければいいんだけど。」
そう言いながらも、何かあったに違いないことはわかっていた。

幸子は学校で酷いいじめをうけていた。
友人も無くクラブ活動に入ることもできないため、毎日6時前には帰宅しているのだった。
6時を過ぎても帰らない幸子。
帰宅が遅れている幸子のことを思うと優子の心は痛んだ。

 

幸子へのいじめが始まったのは小学5年の時だった。
体の弱かった幸子は、風邪をひくと一週間も学校を休んでしまうことがあり、
その日も数日学校を休んだ後の登校だった。

校庭にさしかかると、登校する幸子に気づいた同じクラスの男子が幸子のことを指さし、笑いながら走り去っていった。

「なんだろう。嫌な感じ。」
不愉快な気持ちと不安な気持ちを抱えながら教室に入ると、
幸子に気づいたクラスの皆が、幸子を避けるように逃げていった。

 

いじめのきっかけは些細なことだった。

「幸子のことをみんなで無視しようぜ。」
クラスのリーダ格の男子が始めたいじめ遊びだった。

 

幸子が何か悪いことをしたわけではない。
幸子を無視する理由などどこにも無かった。

 

いつものように隣の席の子に「おはよう」と声をかけたが、
その子はうつむいたまま返事をしない。

幸子はクラスの中の空気がすっかり変わってしまったことに気付いた。

「何かあったようだ。」
幸子はなんだか怖くなってしまい、
自分の席につくと引きこもるように黙っているしかなかった。

気が小さく優しい心を持つ幸子はクラスの友達に反論することが出来ない。
歯向かってくることのない、そんな幸子に男子たちは物足りなさを感じ、
いじめはエスカレートしていった。

体育の時間から戻った幸子が上履きを隠されてしまい、
裸足のまま先生と二人で校内を探し回ったこともあった。
プレゼントでもらった大切な筆入れを壊されたり、消しゴムのカスを頭からかけられたりもした。

連日続くいじめにすっかり元気を無くした幸子。
引きこもりがちになった幸子に気づいた優子が話を聞くと、

「学校で誰も口をきいてくれない。」
と初めていじめにあっている事実を打ち明けた。

優子が学校に相談すると教師は、
「いじめがひどくならないよう注意する。」
「いじめは一時的なもので、時間がたてば元の関係にもどるだろう。」
といううわべの答えしか返ってこなかった。

「幸子に問題があるはずが無い。」
「あの子は悪いことなんかしていない。」
優子は信じていた。

教師が言うように、子供達のいじめがいつまでも続くことはないと思い、
いずれ時間が解決するだろうと楽観的に考えていた。

しかし、幸子へのいじめはその後も執拗に続いた。

6年生になり中学進学を考える時期になった。
学校の環境をかえたほうが良いと思い、地元の公立学校ではなく私立中学への進学について話し合った。

時々学校に行きたくないと言って休むことはあったが、
いじめが続いている中でも幸子は頑張って登校を続けていた。

「頑張れば中学校も行けるよ。」
私立中学はかなりの学費がかかることを知っていた幸子は、
家に負担をかけたくないという思いから私立進学を断った。

優子も、中学になれば環境も変わるだろうという期待もあり、
結局公立中学への進学を決めた。

これが大きな過ちだった。
幸子へのいじめは中学校進学後も続き、内容も悪質なものに変わっていった。

入学祝いにと買い与えたスマートフォン
幸子は大喜びで、お気に入りのケースを買い揃えたり、
大好きな子猫の写真を画面に設定したりして大切に使っていた。
毎日スマートフォンで音楽を聴いたり動画を見たり、
好きなアイドルのニュースを見るのがお気に入りだった。

ある日、同級生から告げられた地域の中学生が使うローカルSNSを見て幸子はショックを受けた。
そこには幸子の実名とともに、嘘まみれの書き込みがあふれていた。
同級生が撮影したのか、自宅付近の写真や幸子らしき少女の写真もあった。
そして、いじめの話題は他校の学生にまで広がっていた。

絶望した幸子。
その日以来、幸子はスマートフォンを持ち歩かなくなり。
今では電源が切られたまま、机の上に置かれていた。

 

「可哀そうな幸子。。」
帰りが遅れている幸子のことが心配でならない。

その時、ガチャリと玄関のドアが開く音が聞こえた。
「ただいま。」
消え入りそうな小さな声がかすかに聞こえ、キッチンのドアから幸子が顔をのぞかせた。
泣きはらした目が見える。

「おかえり。」
優子はそう声をかけた後、続く言葉をのみ込んだ。

「どうしたの。」
「何かあったの。」
そう聞きたかったが、遅れた理由は明らかだ。
学校で何か酷いことがあったに決まっていた。

「少し休むね。」
そう言うと幸子は二階の部屋にあがっていってしまった。

幸子の辛い心を思うと胸が痛み、優子はキッチンで涙を流した。

 

部屋に入るとカバンをそっと床に置き、ベットにあおむけになった。

今日は酷い一日だった。
今日の出来事を思い出すと耐えきれないほど胸が痛み、涙があふれてきた。

中学入学のタイミングで他地区から転校してきた一人の女の子がいた。
その子は、幸子がいじめをうけていることを知ったうえで構わず幸子と友達付き合いをしてくれた。

まわりの学生はそのことが面白くない。
当然のようにその子もいじめのターゲットにされていった。

学校の中ではいつも二人きりで過ごしていた。

そんな彼女が今日、
「幸子さんちょっと話があるの。」
と声をかけてきた。
いつもは幸子のことを「さっちゃん」と呼ぶ彼女が、さん付けで呼んだ。

嫌な予感がした。

「ごめんなさい。私もうこれ以上いじめに耐えられない。」
「幸子さんと口をきかないことで、私のいじめを許してもらえるの。」
「本当にごめんなさい。」

彼女は涙を流しながら幸子に詫びると、幸子のもとから走り去っていった。

予感は的中した。
学校の中で唯一会話できる友人、たった一人の友人に裏切られた。

あまりのショックに返す言葉も無く、呆然と立ち尽くすしかなかった。

悲しさと悔しさで涙が止まらず、
家までどう帰ったのかも覚えていない。

「もうどうでもいいや。」
全てが終わったような感じがした。

 

暗くて狭い階段を一段また一段と上っていく。
コンクリートの非常階段は冷たく、踊り場からときおり吹き込んでくるビル風に幸子はブルッと身震いをした。

何段上っただろうか、屋上に近づくと鉄製の頑丈そうなドアが見えてきた。

「開くかな。」
そう思いながらドアノブに手をかけると、予想に反して鍵がかかっていない。
重たいドアを力いっぱい押し開くと、突然強い風が幸子の顔に吹き付けてきて長い髪が後ろに吹き流された。

ビルの屋上に一歩踏み出す。
屋上は暗闇に包まれていて良く見えないが、ビルのまわりには街の夜景が広がっていた。

屋上を囲むフェンスに近づいて行き、フェンスを見上げた。
3mくらいあるだろうか。
フェンスの上端は内側に向けて傾斜していて、その先には有刺鉄線の針が見えた。

「登れるかしら。」
幸子はフェンスの金網を強く握りしめ、フェンスに足を掛けた。

その時足元の真新しいスニーカーが目に入った。

「いけない。これは置いて行かなくちゃ。」
そう言ってフェンスにかけた足を外すと、履いているスニーカーを脱いでフェンスの横に揃えて置いた。

 

薄いピンク色の入ったお気に入りのスニーカー。
それは母さんと二人で買い物にいったときに、母さんが買ってくれたものだった。

一か月ほど前の休日。
母さんと買い物に出かけたときのことだった。

いつものショッピングモールを歩いていると靴屋さんの前にセール品のスニーカーが並んでいて、その中の一足が幸子の目に止まった。
その色合いが今まで見たことのないほど可愛らしく、一目で気に入ってしまった。

「こんなスニーカーで学校に行けたら楽しいだろうな。」
いじめをうけている自分のことをすっかり忘れ、楽しい学校生活を想像した。

こんな可愛い靴があれば、毎日いじめにあっている苦痛を和らげてくれるかもしれない。
幸子はその靴がどうしても欲しくなった。

「お母さんちょっと待って。」
「そこの靴屋さん見てもいい?」
思わず、母親の腕をつかんで引き留めた。

「この靴、かわいい。」
そう言って幸子は店頭の靴を手に取った。

幸子が物をねだることはここ数年なかった。
いじめにあう日々をどうやって乗り切っていくのか、
そのことで精いっぱいの幸子にはショッピングに気を回す余裕はなかった。

幸子が靴をねだってくれることは、優子にとっても嬉しいことだった。

「あら、かわいい靴ね。」
「さっちゃんに似合うわよ。」
そう言って、サイズをあわせるよう幸子を促し二人で店内に入っていった。

「お母さん、ちょうどいいよ。」
幸子は嬉しそうにそう言って微笑んだ。

その笑顔は、幼いころの幸子を思い出させた。

「よかったわ。」
「それじゃこの靴を買いましょうよ。」
優子は幸子の手を引いてレジに向かった。

買い物の帰り道、幸子は優子の腕にしがみついて離れなかった。

「この幸せな時間がいつまでも続いて、終わりませんように。」
あの時そう願っていた。
わずか一か月前の出来事だった。

 

フェンスを掴む腕に精一杯の力を入れ体を引き上げた。
フェンスの網目に足の指をかけながら一歩また一歩と上っていく。

時々体が吹き飛ばされそうなほど強い風に煽られたが、
その度フェンスにしがみ付いて振り落とされないようにふんばった。

フェンスが内側に傾斜している部分にさしかかった。
傾斜部分にしがみつくと幸子の体は宙づりのようになったが、腕の力だけで体を支えた。

歯を食いしばって腕に力をこめ左足をひきあげると、フェンスの先端にその足を掛けた。
有刺鉄線の針がふくらはぎに突き刺さり幸子の体に痛みが走ったが、
気に留めることなく幸子は体を引き寄せて、ついにフェンスの上に馬乗りになった。

目の前には街の夜景が広がっている。

有刺鉄線の針で手のひらやふくらはぎ、ふとももから血が流れていたが、
痛みはあまり感じない。
もう一度体に力をこめて内側に残る足を跨ぎ、フェンスを乗り越えた。


強い風がふたたび吹いて、幸子の髪を流していく。

足元には行きかう車のライトが小さく光っている。
通りを歩く人の姿も見えた。
そこは母さんと買い物で歩いた通りだった。


「なんで私がいじめられるんだろう。」
「なぜこんなひどい目にあうの。」


「いったい私が何をしたっていうのよ!」
涙があふれて止まらない。


「こんな世界。」

「こんな世界、全部消えてなくなれ!」

そう叫ぶと、幸子はフェンスをつかむ手を離した。

 

 

コトトン コトトン
コトトン コトトン

線路の継ぎ目をまたぐ振動が体に伝わってくる。

坂を登っているのだろうか、
列車は少し傾いていて幸子は右足にほんの少しだけ力を入れて体を支えていた。

車窓には綺麗な星空が広がっている。
列車のなかは暗くてよく見えないが、黒い人影が何人かみえる。
幸子のほかにも乗客がいるようだ。
猫だろうか、動物を抱えているような人影も見える。

窓の外に目をやると、そこに綺麗な三ツ星が見えた。

「あっ、オリオンだ。」
幸子が大好きな星座だ。
三ツ星の下には雲のように輝く星雲や、ひときわ明るく輝くシリウスも見える。

「綺麗ね。」
幸子は車窓に見える星空に見とれていた。

ふと足元を見ると、薄いピンク色の入ったスニーカーが見えた。

「よかった。」
幸子の心が安らいでいく。

「なんだか眠いわ。」
そう言って幸子は瞼を閉じた。

 

少し眠っただろうか。
薄目を開けるとあたりは昼間の明るさだった。

「夜が明けたのかしら。」
そう言って車窓を見ると、窓の外には一面の星明かりが広がっていた。

幸子の目の前には、
いままで見たことのないほどの大きさでオリオンが輝き、
大星雲は、新たに生まれた無数の星の輝きで目も眩むほどの光を放っていた。

 

そこは新たな星が生まれる場所。
トラペジウム。

全ての命はそこで生まれる。


幸子をのせた列車は、
オリオンのトラペジウムに向かって走っていった。


おわり